仙台箪笥の歴史
仙台箪笥とは
仙台箪笥の誕生は江戸時代末期だとされている。仙台藩城下町に集住した職人たちにより仙台藩の地場産業として生まれ、当時は野郎箪笥と言われ、上段に刀、右下に金庫が付き、押し入れの下の仕込み箪笥であった。欅、栗、杉等を原材料に独特な透明感のある鮮やかな紅色の鏡面仕上げの仙台木地呂塗りに、金具はおもに鉄製の打出し金具で漆焼付で、全体的に大きく、枠に納めず伸びやかで、全体として伊達な文化を代表する粋で派手な意匠であることが特徴である。明治中期からは欧米向けに輸出が行われ、外国人好みの牡丹や龍、唐獅子などの金具を、打ち出し技法によって豪華に作り出し、全国に類を見ない華麗な箪笥となった。
現在でも指物、漆塗り、金具の3工程全て分業の職人の手作業で行われている。
今に伝わる金具の図案
金具師の意思や創意工夫が絵師の絵心をかき立て、目で見てそして使ってみて感動を覚える多種の鉄金具が生まれた。
作品から拓本にした図も今に伝わる
仙台で箪笥が作られるようになるのは18世紀半ば過ぎ(明和・天明)だったと思われるが、仙台箪笥としての特徴を持った箪笥が生まれたのは、おそらく19世紀に入ってから(文化・文政)だと考えられる。最初期の様式が「平鉄・蔦の葉・閂型」である。四尺の一本もので、抽斗の構成はすでに仙台箪笥の特徴を備えている。ただし中抽斗の部分が閂になっている。まだ各抽斗に鍵座金具をつけるだけの金具の製造が困難だったためである。鍵座金具が蔦の葉の文様で、引き手は簡素な蕨手である。天保三年の墨書のある仙臺箪笥歴史工芸館に展示されている車箪笥も鍵座は蔦の葉であり、閂型で、引き手は蕨手である。角金具などもしつかりしているのでこの時期には技術的にかなり進んできていたことがわかる。このタイプの全盛期は明治初年から二〇年頃までと見られる。
①にやや遅れて出てきて明治十年頃から明治末まで続くのが「平鉄・鳥・閂型」である。大鍵座が横に拡がって鳳凰とか雲竜などの図案を用いたものだが打出ではなく、平らな厚い鉄にたがね彫りをしている。引き手は蕨手で鍵座は蔦の葉であるから、「蔦の葉・閂型」のバリエーションといってよい。
明治初年から「打出・小の字鶴・閂型」が出てくる。全体の構成は同じだが鍵座金具が鶴を小の字に図案化したもので、打出で立体的にしていて、ここから打出がはじまっている。引き手の鍵座も菊を図案化して打出にしたり、開戸の金具も装飾的にしたりと全体に華やかになってくる。これが明治二〇年頃までである。
③に並行して「打出・混合型」が出てくる。この型になると仙台箪笥の形式がほぼ整ったといってよい。閂があるものもあるが、閂がなくなって中抽斗の全部に鍵座金具がついているものもある。引き手は木瓜型で、金具は打出である。塗装も木地呂塗が多くなってくる。ただし大抽斗の鍵座が鳳凰や雲竜、中抽斗の鍵座が抽斗ごとに違うなどいろいろな文様が混合していてデザイン的にはバランスが悪い。これが明治三〇年頃までである。
④と入れ違えに出てくるのが「打出・唐草型」である。この型が仙台箪笥のデザインとしては最も均整がとれており、作りもよいものである。閂が無くなり中抽斗それぞれに鍵座がつき、大抽斗、中抽斗全部の鍵座金具の文様が、中心に丸に木瓜の打出で、左右に唐草が伸びるというデザインで統一され、引き手は木瓜型。塗装は木地呂で作りが非常によい。この型は大正後半まで続く。
明治三〇年代末から「打出・唐獅子型」が出てくる。この型は外国人向けにデザインされたものである。外国向けがはじまってからは影響されて仙台地方向けの箪笥も派手になり、間口ー間で牡丹に唐獅子や宝珠・巾着などの吉祥文様を、中国の故事に倣った文様などを豪華な打出金具をつけ、濃い紅色の木地呂塗にしたものが作られ、仙台箪笥の最盛期をむかえた。
大正の末から昭和に掛け、しだいに東京式の桐箪笥に嗜好が移り出し、高級品は桐箪笥になり、仙台箪笥はもっぱら農家の嫁入箪笥となった。この時期に出てきたのが「打出・花竝型」である。大抽斗の鍵座に菊花を薄い鉄板で打出にして三つ並べた金具をつけたもので、作りも落ちる。
⑦ とほぼ同時期に「二つ重・大正型」つづいて「三つ重・昭和型」が出てくる。いずれも欅材であるが、東京箪笥の影響を受けて縦型の重ねとなり、塗装も地味な拭漆、金具も東京式の小形でごくシンプルなものとなる。